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とうじ魔とうじによるコラムなど
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 最近「蟹工船」がブームだそうで、再び映画化までされた。今『蟹工船』を上映している渋谷の映画館シネマライズでは、朝一番の回でかつての『蟹工船』を『蟹工船<1953年>』と題してリバイバル上映もしているそうだ。僕にとっては『蟹工船』といえば、何と言っても1953年版なのだ。1953年に僕はまだ生まれていなかった。でも、そうなのだ。なぜなら僕は高校生の時、古い方の『蟹工船』を撮影した宮島義勇監督のもとでバイトをしていたのだ。

 宮島義勇といっても殆どの人は知らないと思うが、日本映画界の大御所撮影監督なのである。撮影監督として53年に『蟹工船』『夜明け前』で毎日映画コンクール撮影賞を初めて受賞。その後も小林正樹監督と組んで『人間の条件』『切腹』『怪談』とたびたび同賞を受賞している方なのだ。また自ら監督としてもメガホンをとり、『襤褸の旗』などの社会派作品を世に送り出したが、1998年に88歳で亡くなっている。僕がバイトしていた頃、宮島監督はあの巨匠・黒沢明監督のことを「黒沢くん」と呼んでいた。黒沢監督を「くん」で呼ぶ人なんて、他にそうはいないでしょ!

 僕は知人の紹介で、宮島監督の事務所でバイトすることになった。仕事の内容は映画のチケットを売ったり、チラシを配ったり。でも高校生はまずいだろうということで、知人の提案で年齢を偽り、大学生であると嘘をついて雇ってもらっていた。いつも、ばれないかヒヤヒヤしていた。たまに大学のことを尋ねられると、しどろもどろで誤魔化した。僕はバイトするまで宮島監督の名前さえ知らなかったが、『襤褸の旗』と『蟹工船』だけは後から一応見た。

 僕が外回りの仕事から戻ると、宮島監督はたいてい事務所で缶詰を肴にしてウイスキーをちびちびと飲んでいた。僕もよく勧められた。まあ監督は、まさか僕が高校生だとは思っていないわけだから。勧められれば、僕はありがたく頂いた。10代のころ宮島監督と飲めたことは、今となっては貴重な体験だったとつくづく思う。

 ある日、僕が外回りから帰ると、宮島監督はいつものようにウイスキーをちびちびやりながら、なにやら執筆していた。どうやら映画のシナリオかシノプシスでも書いているようだった。ちょっと拝見!僕は原稿用紙を覗き込んだ。すると監督が「いや〜ん」と言って原稿用紙を隠した。年配で大御所の監督が、まるで女子高生のような声を出して上体を覆い被せ恥ずかしそうに原稿を隠すさまは、もう可笑しくて可笑しくて、しばらく忘れられずに思い出し笑いが続いた。

 でも、見〜ちゃった、見〜ちゃった♪一瞬だったけど、僕はあの時しっかり見ちゃったもんね!宮島監督、もう時効だから発表しちゃってもいいですよね?監督が隠した原稿には大きく「米騒動」という題名が書かれていたことを。僕はあの時「いや〜ん」の方が可笑しくて気を取られていましたが、心の中では思いましたよ。さすが社会派、宮島義勇監督!着眼点が素晴らしい。テーマの選び方にぐっときました!
 バイトを辞めてしまった僕は、その後「米騒動」がどうなったのかは未だに知らない。
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プロフィール

“目で見る音”をコンセプトに、楽器以外の日用品を使い独自のサウンド・パフォーマンスを行う傍ら、コラムの執筆、テレビ・ラジオ出演、講演会、プロデュース他、幅広く活動する特殊音楽家。1987年「たま」の知久寿焼、石川浩司らと「とうじ魔とうじバンド」を結成、ポップ幻想歌謡集『移動式女子高生』を発表。1989年、美術家の松本秋則、舞踏家の村田青朔とのユニット「文殊の知恵熱」を結成。互いのジャンルを超え、さまざまな発想と仕掛けで五感を刺激するパフォーマンスを展開中。

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