とうじ魔とうじによるコラムなど
×
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
僕は中学2年の13歳の時に、ある“事件”の目撃者になってしまった。それは僕が生まれて初めて生のライブを見に行った時の出来事だった。一人のミュージシャンが自分のアルバム(しかも発売されたばかりのデビューアルバム)が「発禁」を宣告されるその場に立ち会ってしまったのだ。殺人現場を目撃してしまったとか交通事故で人がぐちゃっと潰れるのを見たとか、そんなのを期待して「なぁんだ、“事件”とは大袈裟な」とがっかりした人もいるかもしれない。だが僕にとっては、この出来事がトラウマになって人生が変わってしまったのだから、まさに“事件”と呼ぶのにふさわしいのだ。
そのミュージシャンの名は山平和彦。70年代に活躍した秋田出身のフォーク歌手である。その“事件”が起こったのは忘れもしない1972年6月17日、秋田に住む彼が初めて東京の大ホールで行ったワンマンリサイタルの最中である。彼のデビューシングル「放送禁止歌」(これが曲名である)は既にタイトル通り放送禁止の指定を受け、そんな話題も手伝ってか会場は2千人の聴衆で溢れていた。デビュー曲の放禁処分、それに追い打ちをかけるように今度はアルバムの発禁処分。しかもその報せが本人に届いたのが、東京での初リサイタル中なんと2千人のファンの前でだったのだから、やはり“事件”だ。
報せを受けた山平は、発禁の原因となった「大島節」と「月経」という2曲のクレーム曲を泣きながら歌った。僕も泣きながら聴いた。客席のあちらこちらからもすすり泣く声が聞こえてきた。みんな同じ気持ちだったと思う。涙の理由は二つある。一つは曲の素晴らしさから来る感動の涙。もう一つは、何でこんな素晴らしい曲が「禁歌」というレッテルを貼られ社会から封印されなくてはならいのか?という理不尽な涙。たぶん山平本人も同様だったろう。
その時僕は考えた。幼い頭で考えた。それは今思えば「表現の自由とは何か?」とか、そういった風な事だった訳だが、そんなムズカシイ言葉を知らない13歳のガキは、こう自分に誓ったのだ。「よしボクは禁歌の味方になろう」と。封印されてしまって世間の人が誰も聴けない歌があるなら、僕だけは聴こう、聴き続けよう。そして僕が大人になってもしできる事なら、僕がそんな歌たちの存在を世間のみんなに教えてやろう、と。それから僕は中学、高校時代は山平を師と仰ぎ付き人の真似事をさせてもらい、山平以外の禁歌も収集し、大人になって自分自身がアーティストという職業になってからは様々なメディアで山平和彦や禁歌について語り、山平の死後もこうして語り続けているのです。
僕は禁歌についてきちんと研究している訳ではないので、自分から「研究家」を名乗った事はなく「愛好家」と自称しているのだが、それでも40年近く続けていると<日本一の放送禁止歌コレクター>などと称され、禁歌に関する執筆依頼やテレビ出演依頼がきたりする。前に『開運!なんでも鑑定団』という番組から出演のオファーがあったが丁重にお断りした事があった。番組の企画が、発禁レコードの稀少価値を煽り高値をつけようとするものだったからだ。確かに島田紳助が司会をつとめる人気番組に顔を出せば、アーティストとうじ魔とうじの宣伝にはなる。だが、そんなスケベ心がよぎった僕に、13歳の僕がこう語りかけてきた。「オマエは禁歌の味方になるんじゃなかったのか?!発禁レコードをお宝にして封印に価値をつけてどうする。オマエの仕事は封印から解き放ってやる事だろ?すべての曲を、すべての作品を、すべての表現を!!」
初心に返り、来る5月と6月の2回に渡り阿佐ヶ谷「よるのひるね」で禁歌のレコードをかけ解説するトークショーを行う事にした。「よるのひるね」は小さな店だ。『開運!なんでも鑑定団』とは比べものにならない程の少人数にしか伝える事はできない。でも、やります。禁歌の味方であり続けるために。
今回は各回テーマを設けて行います。第1弾の5月30日は『瞽女唄と放送禁止歌』。民謡や瞽女唄の月岡祐紀子さんと二人で両者の共通点を探っていければと考えてます。そもそも“事件”の発端の1曲は「大島節」という民謡だった訳で、民謡と禁歌はリンクする事も多い。瞽女唄も瞽女がいなくなってしまった今の時代、聴くチャンスがないのも禁歌に通じる。そこら辺を月岡さんとのお喋りの中で見出したい。僕は月岡さんの大ファンで追っかけです。本当に尊敬してます。憧れの月岡さんと二人で一緒にイベントができるなんて夢のようです!とっても素敵な人なので皆さんもぜひ会いに来てくださいね!!
第2弾は井上誠さんと『アングラ演劇音楽と放送禁止歌』。こちらはまた後日ご案内します。
>>>5/30(日)『瞽女唄と放送禁止歌』@阿佐ヶ谷「よるのひるね」
そのミュージシャンの名は山平和彦。70年代に活躍した秋田出身のフォーク歌手である。その“事件”が起こったのは忘れもしない1972年6月17日、秋田に住む彼が初めて東京の大ホールで行ったワンマンリサイタルの最中である。彼のデビューシングル「放送禁止歌」(これが曲名である)は既にタイトル通り放送禁止の指定を受け、そんな話題も手伝ってか会場は2千人の聴衆で溢れていた。デビュー曲の放禁処分、それに追い打ちをかけるように今度はアルバムの発禁処分。しかもその報せが本人に届いたのが、東京での初リサイタル中なんと2千人のファンの前でだったのだから、やはり“事件”だ。
報せを受けた山平は、発禁の原因となった「大島節」と「月経」という2曲のクレーム曲を泣きながら歌った。僕も泣きながら聴いた。客席のあちらこちらからもすすり泣く声が聞こえてきた。みんな同じ気持ちだったと思う。涙の理由は二つある。一つは曲の素晴らしさから来る感動の涙。もう一つは、何でこんな素晴らしい曲が「禁歌」というレッテルを貼られ社会から封印されなくてはならいのか?という理不尽な涙。たぶん山平本人も同様だったろう。
その時僕は考えた。幼い頭で考えた。それは今思えば「表現の自由とは何か?」とか、そういった風な事だった訳だが、そんなムズカシイ言葉を知らない13歳のガキは、こう自分に誓ったのだ。「よしボクは禁歌の味方になろう」と。封印されてしまって世間の人が誰も聴けない歌があるなら、僕だけは聴こう、聴き続けよう。そして僕が大人になってもしできる事なら、僕がそんな歌たちの存在を世間のみんなに教えてやろう、と。それから僕は中学、高校時代は山平を師と仰ぎ付き人の真似事をさせてもらい、山平以外の禁歌も収集し、大人になって自分自身がアーティストという職業になってからは様々なメディアで山平和彦や禁歌について語り、山平の死後もこうして語り続けているのです。
僕は禁歌についてきちんと研究している訳ではないので、自分から「研究家」を名乗った事はなく「愛好家」と自称しているのだが、それでも40年近く続けていると<日本一の放送禁止歌コレクター>などと称され、禁歌に関する執筆依頼やテレビ出演依頼がきたりする。前に『開運!なんでも鑑定団』という番組から出演のオファーがあったが丁重にお断りした事があった。番組の企画が、発禁レコードの稀少価値を煽り高値をつけようとするものだったからだ。確かに島田紳助が司会をつとめる人気番組に顔を出せば、アーティストとうじ魔とうじの宣伝にはなる。だが、そんなスケベ心がよぎった僕に、13歳の僕がこう語りかけてきた。「オマエは禁歌の味方になるんじゃなかったのか?!発禁レコードをお宝にして封印に価値をつけてどうする。オマエの仕事は封印から解き放ってやる事だろ?すべての曲を、すべての作品を、すべての表現を!!」
初心に返り、来る5月と6月の2回に渡り阿佐ヶ谷「よるのひるね」で禁歌のレコードをかけ解説するトークショーを行う事にした。「よるのひるね」は小さな店だ。『開運!なんでも鑑定団』とは比べものにならない程の少人数にしか伝える事はできない。でも、やります。禁歌の味方であり続けるために。
今回は各回テーマを設けて行います。第1弾の5月30日は『瞽女唄と放送禁止歌』。民謡や瞽女唄の月岡祐紀子さんと二人で両者の共通点を探っていければと考えてます。そもそも“事件”の発端の1曲は「大島節」という民謡だった訳で、民謡と禁歌はリンクする事も多い。瞽女唄も瞽女がいなくなってしまった今の時代、聴くチャンスがないのも禁歌に通じる。そこら辺を月岡さんとのお喋りの中で見出したい。僕は月岡さんの大ファンで追っかけです。本当に尊敬してます。憧れの月岡さんと二人で一緒にイベントができるなんて夢のようです!とっても素敵な人なので皆さんもぜひ会いに来てくださいね!!
第2弾は井上誠さんと『アングラ演劇音楽と放送禁止歌』。こちらはまた後日ご案内します。
>>>5/30(日)『瞽女唄と放送禁止歌』@阿佐ヶ谷「よるのひるね」
PR
カレンダー
04 | 2024/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
最新記事
(12/30)
(09/01)
(06/15)
(06/07)
(05/31)
プロフィール
“目で見る音”をコンセプトに、楽器以外の日用品を使い独自のサウンド・パフォーマンスを行う傍ら、コラムの執筆、テレビ・ラジオ出演、講演会、プロデュース他、幅広く活動する特殊音楽家。1987年「たま」の知久寿焼、石川浩司らと「とうじ魔とうじバンド」を結成、ポップ幻想歌謡集『移動式女子高生』を発表。1989年、美術家の松本秋則、舞踏家の村田青朔とのユニット「文殊の知恵熱」を結成。互いのジャンルを超え、さまざまな発想と仕掛けで五感を刺激するパフォーマンスを展開中。
ブログ内検索
最古記事
(06/29)
(07/07)
(07/11)
(10/02)
(10/06)